らせんのドレス

  それはとても澄んだ冬の終わりの朝だった。

 一人の女性が私を入れたゆりかごを雪の上に置くと、視界は青く光る空と背の高い木の影のみとなった。それまで無心に見つめていたはずの彼女の顔は今はもう思い出せない。

 ひとつだけ、母が私に残したものがある。彼女が私を置いて去る間際につぶやいた言葉。凍てつく空気を震わせて、彼女がわたしに刻みつけたただ一つの言葉。

                  らせんのドレス

  それはたぶん、最初で最後の娘への呪縛。

 

久々にむかしの夢を見たのは、吹雪の風音が夜中入りこんでいたからかもしれない。遅い夜明けのかなり手前で目覚めた私は、暖炉の薪がもうないことを思い出した。いつのまに止んでいた雪を踏みしめ薪小屋の扉を開いた時、ようやく一番鳥の羽音が聞こえてきた。

はるか遠くに連なる山々のすそ野に暗黒のように広がる森。その番人を祖父はしていた。祖母を喪い、母を失い、取り残された自分の嘆きを私に見せることはほとんどなかった。傷つき果て疲れた目は時折ゆらめきながら自分を呪うだけだった。

私と祖父は二人きり、黙々と時を見送り続ける。私が死んだ後も息づき続けるこの森の中で、永遠に巡り続けると思われた日々は、その夜明け前に終わりを告げた。

私が何本か丸太を手に取っていると、かすかに風が吹いたような気がした。それが小屋の外にいる何者かの息づかいだと気がつくと、私はすぐに鍵をかけようと駆け出した。が、何もかも遅すぎた。賢い獣は私の居場所を正確に嗅ぎ取り、おそるべき素早さで扉をこじ開けていた。私は足を止め、手探りで後退するしかなかった。

獣は今まで見たことのないくらいに巨大な銀狼だった。足取りは優雅とすら言えるほど無駄がなく、爪が立てる音さえしなかった。琥珀色の瞳は知性を抱き、かすかに開いた口元からは蜜蝋のように輝く牙と熱を帯びた霧が見えた。この森に生きるものの中で、この獣は間違いなく王者を名乗れるだろうと、寒さに痺れた脳裏で私は思った。

恐怖も忘れて立ちつくす私の足元を影が触れた。獣が近づいたのだ。だが私を喰らおうとする気配は感じない。銀狼は私の目線まで首を低くすると、驚くほど澄んだ声でこうささやいた。

「来たれ、我が城に」獣は確かに人語を話した。

「我はおまえを待っている。今夜送る使いと共に来るがよい」

狼はそこまで言うとそれきり身を翻して森の中へ消えていった。足跡さえ残していかなかった。

何者かが:こんな確信が浮かんだ:あの獣の主人が言葉だけを託してここまでやったのだ。取り落として散らばっていた薪が乾いた音を立てた。誰かが私を呼んでいる。

開け放たれた扉から、清浄な朝日が射し込んできた。それは頼りない暖かさしか持っていなかった。

それから夜までの時間は、身もだえするような長さに思えた。火をおこし、湯を沸かし、食卓を整え、祖父と食事をともにする。冬の間は鹿も兎も雪にまぎれ、都から狩りに来る者もいない。祖父は家の外に出ることなく、暖炉の前で古い詩集を読むだけだった。私は魂を昔に置き忘れた老人をそのままにして、一人自分の部屋で今朝のことを思い出していた。

私は今日目覚める前に幼い頃の夢を見ていた。美しく晴れた雪景色。おそらくあれが私の最初の記憶だろう。あのとき確かに私は母と対峙していた。母がそれからどこへ行ったのか、今日までわからないままである。そして彼女の言葉。

いつしか私は母を捉えたそのドレスを見ることを夢見るようになっていた。母に再会することよりも。私を置いていった彼女はこの世にいないかもしれない。だがそれほどに魅せられた服ならば、どこかに残されているかもしれない。そんな望みを抱くようになっていたのだ。

夕闇の迫るころ、再び雪が降り出してきた。尽きることのない細雪はまっすぐに森とこの家に積もってゆく。曇ったガラスを手でぬぐいながら、知らず私は木立の間を目をこらして見ていた。

「風が、消えておる」振り返ると、本に目を落としていたはずの祖父がこちらを見ていた。

「あれがいなくなった日も、そうだった」

母のことだと理解したとき、私の心の中で生まれていた青白い炎が鮮やかに燃え上がった。ああ、では私は母を連れ去ったものと出会うのかもしれない。そこにあるのは恐怖ではなかった。ひそやかな歓喜だった。閉ざされたこの世界から、私を連れ出してくれるという小さな期待とともに。

「そろそろ夕食にしましょう」うっすらと笑みさえ浮かべて祖父に言った。

「今夜は冷えるから早く休みましょうね」



静まり返った夜の底で、私は寝台に膝をつきじっとそのときを待っていた。窓から見える雪の淡く白い光が私の肌を照らす。冷えきった指先は象牙のように色を失っていた。それを軽く握って拳を作ったのと同時に、月まで届くかというほどに長々と、獣の遠吠えが細く高く響いた。

外套を羽織ってから足音を忍ばせ外に転がり出ると、今朝見た巨大な銀狼がじっと私を待ち受けていた。美しい月光の毛の上にも粉雪はまとわりついているが、それさえも星くずのように輝いていた。狼は頭を垂れると四肢を折り曲げ伏せた姿勢をとった。

「あなたの背中に乗ればいいのね」

上にまたがると銀狼は膝を立てた。思った以上に目線が高い。私は長い毛を両手でつかむと、うつぶせに伸びる格好にすることにした。背は楽々と伸ばせる広さがあり、頬をつけると確かな血の温度を感じた。

獣は走り出した。

それから先のことははっきりと語ることはできない。空気の抗う音を聞きながら、嵐のように速く駆ける獣の背中から振り落とされないように必死にしがみついているだけで精一杯だった。銀狼は迷いなく木立を駆け抜けた後、誰も踏み入れたことない:それがあることさえ想像したことはなかった:森の果てから、大きく跳躍した。そこには大地の裂け目とどこまでも深い谷があり、その底へ向かったのだと知るのはだいぶ先のことだった。初めて覚えた浮遊感に耐えきれずに私は気を失ってしまったから。

誰かの足音で目覚めたとき、私は銀狼にもたれていることにまず気づいた。そしてここが決して人が踏み入れられない雪と氷の宮殿であると知った。磨き上げられた床は泡粒を閉じこめ白く輝き、壁は絶え間なく虹色に反射する氷河でできている。大木のようにそびえ立つ柱は押し固められた根雪で、晴れた空のような青色に染まっていた。見上げれば蜘蛛の巣のように緻密に彫り込まれた天井が私と銀狼を幾重にも映し出した。

足音はこの小広間全体に反響して、どこからやってくるものかすぐにはつかめなかった。銀狼が立ち上がって首を上げたその先を目で追いかけると、ちょうど足音の主が細い階段を降りきったところだった。

彼は、この様々な色の光のなかで、超然と漆黒の姿で立っていた。黒髪はやや長めでその先からまっすぐ足下までつやのある闇夜の布地の外套で覆われていた。うつむきがちの顔は息を飲むほどに色味がなく、人形と錯覚しそうなほどであった。そして、それらの何よりにも優っていた、人外の者しかまとえない、静かな狂気と虚無に満ちた気配が、私の視線を釘付けにした。彼こそが、巨大な気高い獣と凍てついた城の主人であった。

「おまえは下がっていろ」

彼はこちらを見ることなく独白のように獣に命じた。その声はやはり薪小屋で聞いたものと同じだった。私の脇をすり抜けて部屋を出るとき、銀狼はちらりと琥珀色の瞳をこちらに向けた。そのとき私はようやく獣が雌であることに気づいた。

彼と私だけになったところで急に寒さを思い出し、私は腕組みをしてこらえた。彼はそこでようやく視線を動かした。樹氷を削り取ってきたかのように澄んだ、銀灰色の両目は、湖の底を思わせた。魔性の年齢など見当もつかないが、その面差しは青年のものだった。

「あの小屋の娘だな」

「かつて、母もここに来たのでしょう?」

この問いは半ば確認であった。冬の森に囲まれたあの家から、他に外へ行くことなどありえない。母もまた、あの銀狼によってこの城に導かれたのだろう。そして、私がここに在るという最大の因果が明らかになりつつあった。今まで目を向けようとしなかった、口にするにはあまりにも重い答えと共に。

彼はそれには答えずに、再び階段を上り出す。その後に私も続いたが、五歩より近づかないように距離を保った。一度も振り返らずに彼は上りきると、延々と伸びる回廊に並ぶ扉の一つに消えた。回廊の真っ白な明るさに目が痛んだが、残像を追いかけて私もその中に身をすべりこませた。

 そこは先ほどとはうって変わって、まさに氷穴が広がっていた。厚く覆われた氷と岩の壁はそのまま弧を描くように天井に続き、その隅は闇に消えていた。地面も大地がむきだしとなったままで、一歩一歩踏みしめる音が果ても見えない洞窟全体に反響して、最後は遠い風のうなり声と重なっていった。    

    「冬の間のみ、この山脈の麓に居を構えている」

耳鳴りのように彼の声が私を取り囲んだ。低いささやき声は淡々と述べていく。

「あれらのような装飾など暇をもてあました挙げ句の澱にすぎない。春が来れば全て溶け、跡形もなく消える」 

「ここは・・・?」「真の休息の地。時の墓場と呼ぶこともある」

こんな荒涼とした所をと思いながらも、ここに安らぎを見出す彼の中の空洞をも見るようで私は返す言葉に窮した。そして彼と同じ空洞が、私の中にあることも悟っていた。冷たい風の音が私の胸の奥の青白い炎をさらに燃え立たせる。

「なぜ、私をここに呼んだの?」

彼はすっと長い指先で闇の奥を指し示した。すると何か薄い紗のようなものがゆらめきながら、だんだん近づいてくるのが見えた。頼りなく踊るようにやってくるそれが人の形であるとわかるまでにはやや時間がかかった。時の流れから外れ、肉体を失ったその娘は軽やかに、立ち止まることなく私と彼の間を舞っていった。純白のドレープに私が触れようとすると、指の間から冷たい霧が散った。

戦慄のあまりにらみつけた私を、彼は楽しげとも思えるくらいに見つめ、つぶやいた。

「よく似ている」

私の瞳は彼と同じ色をしていた。



呆然と立ち尽くす私を尻目に、彼が鋭く口笛を鳴らすと、光の射さないはずの氷穴全体がにわかに明るくなり、足元から霜の絨毯と応接間用の見事な調度品が生まれた。彼は私に座るように目で促し、自ら壁際に置かれた鏡の箪笥の扉を開けた。一瞬、風と粉雪が扉の奥から舞ったが、中には一着だけ、亡霊が着ていたあのドレスが氷の人型を包んでいた。

母がらせんのドレスと呼んだその服は、むしろ簡素とも言える作りをしていた。ゆるやかな曲線を描いた襟元に、手首まで覆う長さの袖、腰まで身体のラインに沿った目の細かい布地が、下半分はその幅を広げ裾まで伸びている。何より目を引くのは吹雪の渦のように、上下の切替から足元まで巡っている優美な一本の筋だった。私は母が舞うたびにさらさらとゆれたあのドレープを思い出した。凝った装飾はないが、表面にちりばめられた雪の結晶の輝きに、この世のものでない美しさに私は思わず立ち上がって見入った。

「今これをおまえに着せることはできない」

彼の言葉に我に返った私は、心の中の願望を見透かされた恥ずかしさに度を失った。

「母のための花嫁衣装だから?」尋ねる声がひび割れているのがわかった。

「血が通っている者が着ると溶けるからだ」

そう言うと彼はこちらまで歩み寄って私の顔をのぞきこんだ。

「おまえを身ごもったあの娘は、産み落としてすぐに、この城に戻ってきた。凍りついたこの世界で無限の時を過ごすことを選んだのだ」

それはあなたのせいだと、私の中の青い炎が叫ぶ。銀の毛をもつ獣とともに、永遠の冬を求めてさまよう孤独なあなたのそばにいたかったのだと言いたくても、無駄な試みであることはわかっていたけれど。彼の心こそ、何物にも溶かせない真の氷だった。

目を伏せた私を一見気遣うように、彼は静かに抱き寄せた。私はその中で、今まで一度も流さなかった涙をいくつも落とした。私と彼は同じ空洞を抱えているが、どこまでもひとつには重ならない。何よりもそれが哀れで悲しかった。

夜が明ける前に彼は私に帰るよう言った。銀狼に導かれて回廊を抜けると、目の前には壁しかない露台に出た。谷の岩肌は草木一本もよせつけず、見上げると晴れ渡った星空が瓶の栓のように覆いつくしていた。城の中心に立つ塔の最上部に彼が佇んでいるのに気づき、私は自分の左手をもう一度見た。薬指の爪は銀色に凍てついていた。別れ際に彼がそこに唇を寄せたのだ。

「決心がついたらまたここに来るがよい。忌まわしい春が訪れるまでに」

彼はそう言って箪笥の扉を閉じた。

私を背中に乗せて銀狼が跳躍する。器用に足場に飛び移るその眼下に、私は今さっき自分がいた露台の上で、白い人影が動いているのを見た。全てを捨てて唯一得たドレスを着て、独楽のように娘は踊り続ける。その両眼は凍った至福の夢に浸っていた。

私もまた、冷たい透明な毒に侵されていた。左手に植えつけられた鎖はもう外せない。目を閉じて、私は真夜中の森を思いおこした。すべてを覆う雪の上に、さらに月光が落とす木立の影。

彼は、美しい影だった。

Sky in every mind

加瀬ヒサヲ 公式サイト KASE Hisawo Official Site

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