ネコツバキを探しに🐈
ぼくのおばあちゃんが天国へ行ったのは、運動会の朝だった。
ぼくはリレーのアンカーを務めるはずだったけど、しばらく学校を休むことになり、ぼくのクラスは五年生では三位に終わった。
べつにそれがくやしかったわけじゃない。
ただ、その日の朝は格別に晴れ渡っていて、もう十月なのにセミが鳴いていたのを覚えている。
おばあちゃんの自宅の庭で、セミのぬけがらを見つけたとき、ぼくは誰にも見られないようにそっと泣いた。
おばあちゃんの家のポストの前で、ナツミさんとはじめて話をした。
チェックのエプロンを着て、落ち葉をはいていたその女の人は、ぼくが声をかける前に「こんにちは」と言った。
「千夏さんのお葬式で会ったの、覚えてる?」
ぼくは覚えていなかった。あのときはたくさんの大人たちが来ていて、みんな同じような黒い服を着て、誰が誰だかわからなかったから。
「わたしはナツミ。高次郎おじさんの息子の嫁…って言ってもわからないか。まあ、おばあちゃんの親せきのナツミです。あなたは、ハルタくん、だったよね?」
「はい」
「一人で来たの?」
うなずくぼくをナツミさんはふーんと見つめ、持っていたほうきをぼくに手渡した。
「お茶いれてくるから、そこの袋に葉っぱを集めておいて。終わったら上がっていいから」
いきなり出会ったナツミさんにそうじを頼まれたぼくは、とまどいながらも、言われたとおりにした。
そうじを終えてぼくが玄関に入ると、すーっとさわやかな果物の香りがした。秋に来たときに感じた線香のにおいや、ひそやかな哀しみをまとったざわめきはなく、なぜか別の家のような気がした。
「おじゃまします」
「こっち、台所の方に来てくれる?」
ナツミさんの声がした。洗面所の前を通り、台所に入ると、小さなテーブルの上にやたらたくさんのガラスびんと、缶詰が並んでいた。
「そこのイスに座って。その青い湯のみに、ゆず茶が入っているから。飲める?」
「ナツミさんは、どうして、ここにいるんですか?」
ぼくの問いに、一生けんめい背伸びして、なべを棚にしまおうとしていたナツミさんがふりむいた。
ぼくのお母さんよりは若かったけど、でも、お姉さん、と呼ぶにはちょっと化粧っ気もないし、『ナツミさん』とぼくは言うしかなかった。
「わたしね、おばあさま、ま、千夏さんと呼んでと言われていたんだけど、とにかくおばあさまのお手伝いをちょくちょくしに来てたの。で、今は片付けとか、そうじとか、たまに来て…で、途方に暮れてたの」
見てよこれ、とナツミさんは一面のびんを指さした。
「おばあさまったら、料理好きだったのは知ってたけど、ジャムやらピクルスやら梅酒やらこんなに残してて、こういうのをどこに配るかも含めて考えてたのよ」
そして、きらっと瞳を輝かせてぼくにたずねた。
「ハルタくんこそ、何でここに来たの?」
ぼくはゆず茶をひと口飲んだ。玄関で感じた香りはゆずだったのだと気づいた。
「お守り、を探しに来たんです」
ぼくはそれからナツミさんに話をした。ぼくはサッカーが得意で、来年私立中学の推せん入試を受けるつもりだということ。でも、おばあちゃんが亡くなって以来、もっと言うと、あの運動会を休んでから、サッカーの練習に身が入らなくなったこと。
ゆず茶を飲みながら、説明するあいだにも、ナツミさんはびんの日付を確かめたり、箱詰めにされた食器にひもをかけたり、手を休めることはなかった。
それでも話を聞いてくれてるとわかったのは、ぼくが話を終えるとこう言ったからだ。
「ハルタくん、サッカー本当に好き?」
「ーーわからない」
「お守りって、合格祈願になるようなもの?」
「おばあちゃんが大事にしていたもので、何かないですか?」
うーん、とナツミさんは考えこんで、それから不思議なことを言った。
「ネコツバキって知ってる?」
「ネコツバキ?」
「たぶん花のツバキの一種なんだろうけど、千夏さん、庭のネコツバキが咲くのを楽しみにしていたのよ。あれは、まだ夏だったかな」
ネコツバキ。どんな花なんだろう。
「ハルタくん、またここに来ていいから、一緒にネコツバキを探すの手伝ってくれない?わたしもずっと気にかかっていたの」
それが、なぞのネコツバキと、ナツミさんとの関わりのはじまりだった。
ぼくにはぼくの事情があるように、ナツミさんにもナツミさんの事情があるらしく、木曜と土曜日になら、ナツミさんはおばあちゃんの家に来ているという。
はじめてナツミさんと会ったのは十二月の最初の木曜日で、次の土曜日はサッカーの試合が入っていた。ふだんレギュラーのぼくは、それなのに何と前の日に右手の人差し指を突き指でケガしてしまった。
ぼくは試合からはずされた。ほんと運動会の日からぼくはついていない。だからぼくは、右手に包帯を巻いておばあちゃんの家へ行った。
ナツミさんは、庭の柿の木をながめていた。そんなに大きくはないが、いくつかの実がついていて、その倍以上の数の小鳥がそれを食べようとさえずっていた。
「こんにちは」
「こんにちは。手、どうしたの?」
「ちょっとケガして」
「柿食べる?本当はたくさん取りたかったんだけど、わたしの手がとどかなくてそんなにないけどね」
「ネコツバキは見つかりましたか」
ぼくの問いにナツミさんは首をすくめた。
「ツバキはまだ咲く時期じゃないのよ。でも調べたけど、あれはおばあさまの独自のネーミングみたいね」
寒いから和室に上がって、と言われ、ぼくは縁側から靴を脱ぎ、和室のこたつに入った。あたたかかった。
しばらくすると、ナツミさんが切り分けた柿と湯のみを持ってきた。
「これ何ですか?」
「梅こぶ茶。しょっぱいけどおいしいよ」
ぼくたちは、こたつで向かい合って柿を食べた。梅こぶ茶は、お吸い物みたいな味がした。
今日のナツミさんは、黒のタートルネックに緑のチェックのワンピースを重ね着していた。肩までの髪は一つにまとめられていて、前より若く見えた。
「ナツミさんって、いくつですか」
「それは女の人には聞かないのがマナーよ」
でも、「もうすぐ年女」とは教えてくれた。
ナツミさんはふだんはアルバイトの薬剤師として働いているという。
「おばあさま、千夏さんは料理が得意だったと義父から聞いて、はじめは習いに通ったり、一緒に保存食作りを手伝ったりしてたの。でも、わたしが漢方とか野草の話とかしたら興味を持って、庭にハーブとかも植えるようになったのよ」
楽しかったなあ、とナツミさんは目を細めてほほえんだ。
「ハルタくんがおばあさまと亡くなる前に、最後に会ったのはいつ?」
それは今年のお正月だった。でもそのときすでにおばあちゃんは入院していた。
正直言って、ナツミさんの話す元気だったおばあちゃんの姿というのは、あまりイメージできなかった。
そのことをナツミさんに話すと、ナツミさんはさみしそうに言った。
「ハルタくんは、学校もサッカーも忙しいし、あっという間に成長しちゃうから、おばあさまもびっくりしていたのかもしれないわね」
そして、手元から小さな布の袋を取り出した。
「これね、千夏さんの引出しに入っていたの。開けてみてくれる?」
ぼくは絞られていたひもをゆるめて、袋を逆さにした。五百円玉くらいの大きさの懐中時計が出てきた。
「もう修理してもらってるから動いてるよ。それ、ハルタくんに渡しておく」
「いいんですか?」
ためらうぼくに、ナツミさんは身を乗り出した。
「時間ってね、見えないけどひとりひとりが自分の時間を持っているのよ。千夏さんはそれを全うしたけど、次はハルタくんが、ハルタくんの時間を大事にしていくの。だから、お守りがわりに大切にしてあげて」
その時計は、ローマ数字で三時半を指していた。
にゃーー、と庭の方から何かの声がした。
ハッと驚いたようにナツミさんが顔を上げると、ぱたぱたと立ち上がってあわてて庭に出た。
「戻ってきたの?どこにいるの?」
ナツミさんが問いかけるとのっそりと白地に茶色のぶちのの猫が現れた。ナツミさんの顔が喜びに輝いた。
「コナツ、無事だったんだね。ああ、生きててよかった。生きててくれて」
そしてさっとふり返り、ぼくに言った。
「ハルタくん、何でもいいからお皿に水入れて持ってきて。あと残ってる柿も一応あげてみよう」
コナツと呼ばれたその猫は、ごく自然に縁側に上がり、丸まって寝そべった。
「おばあちゃんのペットなんですか?」
ぼくが水を持ってきてたずねると、ナツミさんは首をふった。
「野良よ。でもたまに庭に来てたから、千夏さんがコナツと呼んでかわいがってたわ。すごく久しぶりよ、ここにやってくるのは」
コナツは水は飲んだが、柿はひと口なめるとそれきり見向きしなくなった。
ナツミさんはそっとコナツのとなりに座った。
「わたしね、ネコツバキって言葉を聞いて、最初に思い浮かんだのが、コナツだったの」
ツバキには赤い花と白い花がある。そのうちの白い花の一つが、コナツみたいに茶色の模様があるとしたら、それがネコツバキではないのかと思ったのだという。
「でも、おばあさまはだんだんコナツのことも忘れていった。ネコツバキの話も、本当にあるのかどうかわからない。でもね、ハルタくん」
そこでナツミさんは視線をコナツからぼくに移した。
「本当にあるかないか、目に見えるからいるとか、見えないから存在しないとか、そういうのの前に、おばあさまが信じていて、確かに生きていたということの方が大切だよね?」
ぼくはうなずいた。ぼくはおばあちゃんが亡くなる前より、今の方が、おばあちゃんのことをわかるようになったと思う。ぼくがぼくの時間を生きている間にも、あるいはぼくが生まれる前から、おばあちゃんの時間はあったわけで。
「ネコツバキ、咲いたら教えてください」
ぼくがナツミさんに頼むと、コナツがしっぽをぱたりとナツミさんにゆらして当てた。
「コナツもお願いしてる」
そう言うぼくがナツミさんの髪に白髪を見つけたとき、なぜか胸騒ぎがした。
「そうね、期待してて」
ナツミさんはおだやかにほほえんだ。
ぼくがお守りとして懐中時計を持つようになったあと、ナツミさんと会えなくなった。
突き指が治ったあと、ぼくはインフルエンザにかかってしまい、一週間学校を休んだ。外にも出かけられず、ただコチコチと動く時計をながめては、ため息をついていた。
コナツは元気だろうか。ナツミさんは心配していないだろうか。そんなことを気にしていたら、一通の手紙が届いた。
ナツミさんからだった。
『ハルタくん
お元気ですか。手のけがは良くなりましたか。
実は私は今度大学の研究所で働くことになり、おばあさまの家へ行くことができなくなります。
また、黙っていたんですが、年明けにあの家は取り壊されることになりました。
私はその片付けのためにあの家に出入りしていました。梅干しもカリンのお酒もピクルスも配り終わり、食器や家具も処分先が決まりました。
ネコツバキは、とうとう私には見つけられませんでした。
でも、ハルタくんと会えて楽しかったです。
時計、大切にしてください。
サッカーがんばってね。
お元気で。 ナツ 』
手紙の中で一番悲しかったことは、ナツミさんともう会えないことだった。でも、もう一つの心配の種だったコナツのことは書いていなかった。
ぼくはいても立ってもいられず、ナツミさんがいるはずのない翌日の日曜日の朝、おばあちゃんの家へ向かった。
走りながら息が白くなるのを見て、ぼくはナツミさんがずっと手袋をしていなかったことを思い出した。寒くなかったのだろうか。
到着してぼくが見たものは、シートでおおわれた家だった。まだ壊されてはいないようだったが、鍵も持っていないぼくには中に入ることはむりだった。
「コナツ」
ぼくは猫の名前を呼びながら庭へ行った。柿の実は消え、人気のない庭はうす暗かった。近所の人の目に入らないように、ぼくはかがんで縁側の下をのぞいた。
ちかっと、何かが光って見えた。それがコナツの瞳だとわかると、ぼくはほっとした。
でも、そこに一緒にいるものを見ると、ぼくの胸は熱くなった。
コナツは、三匹の子猫を産んでいた。
白ぶちの母猫であるコナツのおなかの下で、それぞれ色の異なる子猫が眠っていた。
それぞれに、まんまるく、ひとかたまりに。
「ーーネコツバキ」
ぼくは思わずつぶやいた。そしてもう一度、はしからはしまで、庭の木々をよく見た。
椿の木はなかった。
ぼくは確信した。コナツと、この子猫たちのことを、おばあちゃんは待っていたんだ。
ナツミさんに早く知らせたかった。そして、この猫たちをどうしたらいいか相談したかった。
でもぼくは、ナツミさんには会えなかった。
それどころか「ナツミさん」という女性はぼくの親戚にいなかったのだ。
手紙もなぜか探しても見つからなくなってしまった。
ぼくに残されたのは、懐中時計。
そして、猫たちだった。
「晴太、今日入学式でしょ。早く起きなさい」
母親に布団をはがされて、ぼくは渋々起き上がった。懐中時計は七時二十分を指していた。
茶色のしまの猫がぴょんとベッドの上に飛び乗ってきた。
「ユズ、おはよう」
「制服はそこに出してあるから早く着替えて」
「お母さん、部活で着るジャージは?」
「名前書いてたたんであるわよ。あなた声変わりしたら、ずいぶんお父さんに似てきたこと」
そう言いながら母親が出ていくと、ぼくは鏡で自分の顔を見た。散髪したての頭はほとんど坊主で、顔が細くなったように見えた。
あれからぼくは子猫の引き取り手を探し、残ったユズを家で飼うようになった。
私立中学の推せん入試に合格したとき、あのおばあちゃんの家はマンションに変わっていた。
ナツミさんのことは、結局わからずじまいだったけど、ユズは人懐っこく、元気だ。
はじめて着る制服は、少し大きいけど、誇らしかった。
ネコツバキの花を見かけたら、あの人が近くにいないか探してほしい。
背が小さくて、ちょっとおっちょこちょいで、たぶん家事と草木が好きなナツさんを。
きっと一緒に、あの猫もいるから。
今日の桜は、満開に咲いているだろう。
〈了〉
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