なかないしるし
大人という理由で夢をあきらめちゃいけないよ。 二年前の高校の同窓会。定年を間近に控えた開(かい)先生は、俺と熱燗を酌み交わしながらそうぽつりとつぶやいた。 そのときすでにけっこうでき上がっていた俺は、「えー、じゃあ先生にも夢ってあるんですか?」とたずねた気がする。先生はほほえんで昔より薄くなった髪をするりとなでた。 「私はね、……なんですよ」 え?何て言った?そう思ったとき外野のギャハハハハ...
Evernote
君の呼ぶ声
ねえ、たとえばの話なんだけど、と彼女は僕に言う。 もしもね、交通事故の後遺症かなんかで、子どもの頃の記憶しかなくなっちゃうわけ。幼児退行って言うのかな? そしたらさ、好きな人があなたじゃなくて、初恋の男の子になるのかな。 わたし小学校の頃すっごく好きだった子がいるの。転校しちゃったから、会えなくなって終わったけど。そうしたらあなたどうする? それはつまり、裏を返せばこういう問いになるのだろう...
ダッシュ
午前5時13分の始発電車を、毎朝男は待ち受ける。自宅アパートから3分ほど歩いたところにある踏切と線路に沿って伸びる道路は約200m先で左に曲がる。もう1年間、男はこの踏切の前で始発電車が来るのを待っていた。 始めたきっかけはささいなことだった。同じ日に生まれた双子の兄が、1年前結婚した。幼い頃から真面目な兄は国立大を卒業して公務員となり、職場で知り合った女性と結ばれた。 かたや自分は高卒で、派...
手のひらに、風のぬくもり。
「 お母さん、元気ですか。 最近ぜんそくがつらそうだと聞きました。大丈夫ですか? 私とゆいは元気です。今度の連休は、なかなか休めないけど、どこかでそちらへ行こうと思っています。桜はもうすぐ終わりだけど、ハナミズキが咲きだしました。 庭のあじさいも伸びています。」 くしゅんっ、と結衣がくしゃみをする音が聞こえたが、起きてはこなかった。 和代はすでに冷めていた玄米茶を飲み干し、娘の様子を見に...
ネコツバキを探しに
ネコツバキを探しに 加瀬ヒサヲ ぼくのおばあちゃんが天国へ行ったのは、運動会の朝だった。 ぼくはリレーのアンカーを務めるはずだったけど、しばらく学校を休むことになり、ぼくのクラスは五年生では三位に終わった。 べつにそれがくやしかったわけじゃない。 ただ、その日の朝は格別に晴れ渡っていて、もう十月なのにセミが鳴いていたのを覚えている。 おばあちゃんの自宅の庭で、セミのぬけがらを見つけた...
あいあがれ
あいあがれ 加瀬ヒサヲ 1 リサ 三十二歳になっても、私の生活は変わりなかった。派遣で週五日事務の仕事をして、三年前から始めた一人暮らしの部屋で簡単な料理をして食べる。休日は掃除をして、気が向けば街に出て買い物やお茶をする。ひとりでいることが当たり前だったから、ひとりのままでもやっていける。そう思っていた。 そんなとき、姉夫婦が事故で亡くなった。 姉夫婦はアメリカに住んでいて、ひと...